このページは近未来のフィクションです。実在の団体名等が出てきますが、無関係です。

考える葦 一

恒保2年

 人間とは何か。このところ、この極めて根源的な問題が、私の思考を占拠して離れなかった。果たして、脳以外の全ての肉体を廃してもなお、これを人間と呼んでもよいものなのだろうか。脳の存在が、人間が人間たる所以なのだろうか。

 去年、この命題に肯定的判断が下されたのを私は知っている。国としては、脳だけでもやはり人間であるというスタンスなのだ。私も、まだ生きる術があるのに、それを敢えて止めて、自ら死を選ぶというのは、この病室の窓から飛び降りるのと同じような罪悪感を覚えるので、積極的に義体化を拒否しようという気にはなれなかった。かといって、政府の義体認可の理由は、どうも詭弁学派のアキレスと亀の話を聞いているかのような釈然としない感が残り、私の義体化への決断を踏み止まらせた。

 どうも、この2つの板挟みが、このごろの堂々巡りを引き起こしているように思われた。だから、私は義体化拒否を肯定しようとするのを止めた。このまま答えが出なかったら、いずれ死を受け入れざるを得なくなるのだから。

 じゃあ義体化を肯定する理由は何なのだろう。なぜ、脳が生きてさえいれば、その人が生きていると言うことができるのだろう。確かに、脳が死んでいれば、臓器提供の場合に限り、その人を死人と見なしてよいことになっている。脳死というやつである。だが、必ずしもその裏が成り立つとは限らない。

でも、逆は成り立っている。「人が死んでいるならば、脳は死んでいる」は、明らかに正しい。じゃあこの対偶も真なのではないか。「脳が生きているならば、人は生きている」

 そうだよ。私はまだ生きられるんだ。この結論は私を義体化へと突き動かした。

2012/11/09

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