このページは近未来のフィクションです。実在の団体名等が出てきますが、無関係です。

考える葦 二

恒保2年

 一度出た結論の綻びが、私の心を始終圧えつけていた。「脳が生きているならば、人は生きている」という結論が、私を義体化の決断へと導いたのだが、それを言うために使った対偶、「人が死んでいるならば、脳は死んでいる」という命題が問題なのであった。この命題は、何も脳に限って成り立つものではない。「脳」を「心臓」に変えたって、「腕」や「脚」に変えたって、成り立つじゃないか。当然その対偶も成り立つ。脳こそが人間を人間たらしめると信じる根拠が、土台から崩れ去ってしまうのではないか。私は昨日の夜、ベッドの中でそんな考えが頭に浮かんでから、再び義体化に二の足を踏むようになっていた。

 だが、今冷静に考えてみると、最初に挙げた脳死の命題、「脳が死んでいるならば、(臓器提供の場合に限り、)人は死んでいるとみなされる」は、他の臓器や手足などでは成り立たない。現代の医学では、完全置換型人工心臓までもが実用化されている。まして、手足を失って、義肢をつけて生活している人に対して、手足が失われているからといってその人が死んでいるとは思わないだろう。脳が身体の他の部分と決定的に違うのはここではないだろうか。脳死の命題「脳が死んでいるならば、(臓器提供の場合に限り、)人は死んでいるとみなされる」と、脳死の裏の命題「脳が生きているならば、人は生きている」が両方成り立つからこそ、脳の生死と人の生死は同値なのだ。脳死の命題を持たない身体の他の部分は、それが生きていれば確かに人は生きているが、それが死んでいるからといって人が死んでいるとは限らない。だから、身体の他の部分の生死と人の生死は同値ではない。

 この結論は彼女を安堵させ、また再び揺らぐことはなかった。手術の日は迫っていた。

2012/11/10

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